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東京高等裁判所 昭和41年(う)478号 判決 1966年6月22日

被告人 横川忠三

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、新潟地方検察庁検事丸物彰作成の控訴趣意書ならびに弁護人清野春彦作成の控訴趣意書記載のとおりであり、検察官の控訴趣意に対する答弁は、右弁護人作成の答弁書記載のとおりであるから、いずれもこれを引用し、右各控訴趣意に対し、当裁判所は、次のように判断する。

弁護人の控訴趣意について

所論は、被告人が原判示第二の宇佐美喜美子殺害に用いた索条は、原判決がいうような、被告人が予め準備携帯していた白色三本S撚りロープが結びつけてある国旗印布団袋用の紐ではなくて、自己着用の革バンドである。すなわち、被告人は、犯行現場において同女の態度に激昂し、咄嗟に殺意を生じて自己着用の革バンドを用い同女を絞殺するに至つたものであつて、本件は、全くの偶発犯である。それにもかかわらず、原判決が本件を被告人の計画的犯行とみたのは、明らかに事実を誤認したものであると主張する。

よつて所論に鑑み、本件記録を仔細に検討してみるに、被告人が、原審第一回公判期日において裁判長や検察官の個別的、具体的な質問に対し、喜美子殺害の動機及び殺意を生じた時期、そして、いよいよ同女を殺害すべく本件布団袋用の紐を準備した状況、本件当日朝これを携行して同女方に赴き、これをその頸に巻きつけて同女を殺害した経緯ならびにその後持ち帰つた右布団袋用の紐の一部等を焼却した状況等につき具体的明確に犯行を認めた供述をしながら(ちなみに、航殺害の点については、手で締めたことは認めたが、その殺意及び背負い帯で締めたことを否定し、捜査段階の取調べの際背負い帯で締めたと言つたのは上気していたためであると述べている。)、その後、原審第二回公判期日になつて、にわかにその供述をひるがえし同女殺害に使用した索条は、当時同女が首に巻いていたネツカチーフ及び自己着用の革バンドであつて、殺意は現場で咄嗟に生じたものである旨を述べるに至つたのであるが、その供述を変えた理由について被告人が弁疏するところを資料に基き虚心に検討してみても、それ自体としてたやすく釈然たりえないものがあるのみならず、他方、右弁解を裏付けるものとされる、被告人が内野療養所に入院するに際し、国旗印布団袋は携行したが、その白い紐は使わずに、これを自宅に保管してあり、昭和四〇年二月一一日警察官に任意提出したという横川喜以子の原審ならびに当審における各証言も、原審証人角山登喜夫、同久住繁雄の各証言、佐藤孝、木下、福井洋一郎の検察官に対する各供述調書、警部補角山登喜夫作成の昭和四〇年二月一一日付「ふとん袋用紐の領置についてと題する報告書、さらには横川喜以子自身の検察官に対する供述調書と対比し、とうていこれを採用することができない。そのほか、原審鑑定人山内峻呉作成の被害者宇佐美喜美子に対する鑑定書の記載内容と被告人が本件犯行に使用したものとされている前記国旗印布団袋用の白紐により生じたものと考えられる頸部の索溝との問題等所論が縷々指摘する諸点を十分念頭におきながら、原判決が弁護人の主張に対する判断として、懇切詳細に説示しているところを逐一関係各証拠と対比照合して検討しても、原判決の事実認定における個々の証拠の取捨選択ないしその評価又は証拠の総合評価が明らかに不合理なものとは認められず、原判決挙示の各証拠を総合すれば、原判決各事実はすべてこれを肯認することができる。事案の重大性に鑑み、重ねて一件記録に検討を加えても、原判決に所論のような事実誤認の虞があるものとは認められないから論旨は理由がない。

検察官の控訴趣意について

所論は、原判決は本件公訴事実をほとんど全面的に肯認しながら、検察官の死刑の求刑に対して無期懲役刑の言い渡しをしたが、本件事犯の罪質、情状に鑑みれば、その量刑は軽きに失し不当であると主張する。

よつて、その主張の理由として論ずるところに従い、本件記録ならびに当審における事実取調の結果に基き検討を加えることとする。

被告人の本件各犯行は、原判決が詳細に判示するとおりである。すなわち、右判示第一の犯行は、被告人が同じ堀正治方の間借人として自己の居室の向いに一人住まいしていた北トヨ子を強姦しようとしてその居室に侵入し、その頸部を締めつけたり、起き上つて逃げようとする同女の腕を引張る等の暴行に及んだものの、同女に大声で助けを求められたため、その目的をとげなかつたが、右暴行により同女に軽傷を負わせたという事犯であつて、この件については、被害者北トヨ子が進んで警察官に被害を申告したわけではないようであるが、隣室の池田夫妻に助けられてから被害者が泣き続けていたことや、翌日早々にしてその止宿先を引き払つてしまつたことなどからも窺えるように、被告人の犯行により被害者の被つた精神的衝撃は軽視できないものがあつたと言わなければならない。また、原判示第二の殺人の犯行は、一瞬のうちに何の罪とがもない母子二名の貴重な生命を奪つたものであり、しかも、宇佐美喜美子殺害の動機は、同女に被告人の咳などから結核菌が出ているかどうかを問いただされ、嫌悪の情を示されたというのであるが、畢竟、これも自己の愛児に結核菌が感染しはしないかという、母親のわが子に対する愛情の発露として理解されないこともなく、日ごろから自己の肺結核を気に病んでいた被告人にとつて不快なものではあつたであろうけれども、とりたててやかましく非難されなければならないというものでもないであろうし、いわんや殺害行為を挑発するほどのものであつたなどとはとうてい考えられないのに、被告人の内向的ではあるが一面短気、突発的な性格は、ついに被告人を本件犯行に追いやつたのである。被告人の宇佐美喜美子に対する犯行は、原判示のとおり計画的なものであつたといわざるを得ないのであつて、このことは、被告人の反社会的な危険な性格をあらわに徴表するものである。また、右喜美子を絞殺後、同女の手から転がり落ちた生後四か月の乳児までを手指でたやすく扼殺してしまつたことは、何よりも強く世人の指弾を受けなければならないであろうし、さらに、右両名を殺害した後、その犯跡を隠蔽するためとはいえ原判示第三のとおり、その犯行現場でキヤビネットを破壊し、死者の枕辺近くで金員を窃取するなどは大胆不敵と非難されてもやむを得ないであろう。また、一方、喜美子の夫、宇佐美博正は、ようやく新居を構えて将来の生活への礎を築いた矢先、被告人の本件犯行により、最愛の妻といわゆる一粒種の長男とを一時に失い、一挙にその家庭生活を根底から破壊されてしまつたのであつて、その心情はまことに察するに余りがあり、たとえ、その後、再婚の機会を得たからといつて、その心の傷痕は終生消えるものではないであろう。更に本件が、白昼、夫の不在中に発生した母子殺害事件として、付近居住者を恐怖におとし入れたその社会不安ないし衝撃は甚だ大きいものであつたといえよう。いま、記録に残る、気の毒な若い母親の頸部の無残な索溝と、その傍らに横たわる無心な乳児の死顔を見ればあくまでも被告人の刑責を糺弾すべきものとして、強く極刑による処断を要請する検察官の所論も、それ自体として決して肯けないものではない。

しかし、死刑は、いうまでもなく、国権によつて犯人の生命を剥奪し、その社会的存在を抹殺する極刑である。そして、殺人罪に対する刑罰としては、死刑のほかに、無期又は三年以上の有期懲役が規定されていることは、周知のとおりである。したがつて、たとえ、殺人犯に対する場合であつても、その量刑にあたつては、犯行の手段、動機、結果等を十分考慮に入れるべきことはもち論であるが、それのみに止らず、更に進んで、犯人の性格、年令及び境遇、犯行に至るまでの経緯ならびに犯罪後の情況等ひろく当該犯人の人間性ないし犯行の実体について、真に極刑に値する特異性が存するか否かを慎重に検討考慮する必要があることは、まことに原判決の指摘するとおりである。

そこで、この観点からあらためて考えてみると、被告人は、原判決が示すとおりの経歴を辿つてきたものであつて、製パン工としての経験も相当に長く、その技術も認められて、かなりの地位にまで昇進していたようである。なるほど、性格は内向的で短気、爆発的なところがあり、かつて、その独身時代に、家庭内でしばしば悶着を起し、結核のため家族から嫌われたというので腹を立て、寮にひき移つてしまつたというようなこともあつたようであるし、また、飲屋で金が足らなくなり、寮へ戻つて金をとつてくるというのに、女中がしつこくつきまとつたということで立腹し、これに手出しをして負傷させ、罰金二千円の処罰をうけた事実も窺えるほか、なお、内野療養所に入院中も妻をごまかして金をせびり、その金で酒を飲んだりする等必らずしもその療養態度が良好でなかつたふしぶしも見受けられないことはない(さりとて他の患者や看護婦ら職員から悪感情を持たれるということもなかつたようである。)が、総体的に見て、被告人は、原判決もいうように、その生い立ちから現在まで、その生活態度が必らずしも良好とはいえないまでも、一、二の例外を除けば大きな人格的の崩れすなわち人間性の喪失というような兆候は示していないものと言いうるであろう(かえつて、被告人が堅実な経歴をもち、これまでほとんど一貫して製パン工として稼働しており、その技術も認められて相当の地位まで昇進していたことは、さきにも述べたとおりである)。また、被告人が前記喜美子に対して殺意を抱くようになつたことについては、被害者側に被告人をそれほどまでに刺激するような挑発的な言動があつたとは思われないにしても、これまで二度も肺結核のため入院暮らしを余儀なくされ、自己の病状やそれに対する他人の思惑をいたく気に病んでいた被告人としては、まんざら知らない間柄ではないばかりか、これまで自己が上司としていろいろ面倒を見てやつてきていた前記博正の妻から一度ならず二度までもあまりに潔癖すぎると思われるほど露骨に結核菌の伝染を恐れるような言動に接して思わずも吐胸を突かれ、同女の仕打ちをあまりにも思いやりのない冷酷な振舞いであるとして痛く憤激したというその心情の波紋も、この種の患者の気持ちとして、全然理解し難いものでもないと考えられるのである。被告人は、捜査官に対し、前記喜美子殺害の動機についてかなり詳細に自供しており、とくに、同女に対する殺意をかためるに至るまでの悶悶たる心境についての供述部分は、よくその間における被告人の心情の起伏についての機微を伝えているものと思われるし、また、いよいよ同女殺害に赴く彼の状況として、原判決の引用している、「一旦、内野療養所を出たもののバスにも乗り遅れ恐しさのため殺す計画を止めようと考え再び右療養所に戻り同所の面会室で考えているうち、どうしても殺そうという気になつた」という被告人の述懐のうちにも、いよいよ人を殺そうとしながらも、いざとなるとなかなかに決行しえない人間性の一面を把えることができるであろう。更に、原判決も指摘しているように、本件は計画的犯行とはいえ、激怒且つ高度の功利的ないし利慾的な計画、打算に基づいて敢行されたものとは認め難く、むしろ、自己の一番痛いところを遠慮会釈もなく突かれたことに由来する激情にゆり動かされたことに胚胎するものと考えるのが相当であつて、とくに被害者航に対する殺害行為は、喜美子殺害直後の激情の余波と航のけたたましい泣声のため犯行の発覚を恐れた狼狽のうちに咄嗟に行われた偶発的犯行と見るべきものであろう。

本件の一般社会に与えた影響が大きかつたことは前述のとおりである。しかし、本件は、その底を割つてみれば特定の人間相互間の微妙な感情のもつれから生じた事案であること、つまり巷間にいわゆる通り魔的な殺害事件や、利欲のための冷静な利害打算のうえに敢行される誘拐殺人事件のごとく、本質的に社会的不安と結びつく性質の事案、すなわち、一般世人をしていついかなる災害が何のいわれもなく、突如わが身にもふりかかつてくるかもしれないという危惧の念を抱かしめざるをないような事犯とは稍々その性質を異にするものであることも、量刑上一応念頭にとどめておいて然るべきであろう。

最後に、被告人の改悛の情について考えてみる。被告人は昭和四〇年一月二六日逮捕以来、同年二月四日までは本件殺人を否認していたが、二月五日飜然と本件殺人事犯の経緯いつさいを自供しその後、原審第一回公判期日に至るまでおおむねその態度は一貫していたのである。それは、本件殺人の犯行に対する被告人の反省と改悛の情のおのずからなる発露であると見ることに誰も異存はないであろう。ところが原審第二回公判以後には、既に述べたように、被告人はその供述を変更して犯行の主要部分を否認しているのである。これに対し、原判決も被告人の改悛の情には若干疑問なしとせずと言い、ことに検察官は被告人にはいまだ悔悟の情は全然認められないとまで強く言いきるのである。おもうに、人の心情の起伏は機微をきわめたものであろう。取り返えしのつかない重罪を犯し、世人の強い非難と糺弾を身に浴びていることを自覚しているにちがいない被告人としては、極刑を覚悟していた時期もあつたにちがいない。現に被告人は、原審最終期日において、死刑の求刑がなされたのをきいたうえで、「被害者に申訳ない。いかなる刑罰も甘受する。」と述べているが、これをただ一片のおざなり的な言葉として軽く一蹴し去ろうとするならば、それは、いささか片寄りすぎた受取りかたではあるまいか(ちなみに、本件控訴の申立が、原審の弁護人ならびに検察官からなされており、被告人自身からなされたものではないことにも一応目をとめておく必要があるであろう。)。みずからは死を覚悟しているつもりの人でも、やはり、生への執着はたち切れない。しかし、それだからといつて、その人の死の覚悟がいつわりであるとたやすく言い切るわけにはいくまい。裁判の場において、生死の岐路に立つた被告人が、中途からその供述を変更し、その犯行の主要部分を否認したことを把えて、その被告人にはいまだ一片の改悛の情もないと断じ去るには、裁判所としてよほど慎重な考慮を払わなければならない(被告人の妻横川喜以子の原審ならびに当審における証言が真実に合致するものと認められないことは、さきにも述べたとおりであるが、それだからといつて、同女の供述が被告人との通謀によるものであることを疑うに足りる証拠はない。)。

本件被告人の性格、事案の態様、犯情等に鑑みるとき、本件犯行は天、人ともに許さない全く極悪非道であり、被告人の人間性は到底認める余地がない。されば、この被告人に対し無期懲役刑を以てしては、到底被告人をして被害者の冥福を祈らせる所以でないばかりでなく、被害者の遺族及び世人を納得させることは不可能である、と断じて強く極刑を求める検察官の所論は、それ自体として、まことに傾聴に値いする見解である。しかしながら、物ごとにはいろいろな角度から見方があろう。そして、裁判所としては、被告人に不利な情状を細大洩らさず考慮に入れるべきであると同時に、また、被告人のため酌量し得べき有利な情状をも逸することなく合わせ考えた上で適切、妥当な刑を量定すべきであることは、いうまでもない。この基盤に立つて、以上説示した諸点をあれこれ考え合わせると、原判決がその説示のとおり、被告人に不利な情状と有利な情状とをあますところなく分析究明した上、被告人に対し真に極刑をもつてのぞむべきであるとの心証を惹起し難いとして、むしろ今ここで被告人の生命を断つてその責任を追及するよりも無期懲役刑をもつて処断し、被告人には命のあるかぎりその一生をかけても被害者らの冥福と自己の謝罪とを心から祈らせ、またみずから妻ある夫として、更には幼い子を持つ人の親として、不断に痛烈な良心の苛責に悩むであろう被告人に、妻子を失つた前記博正をはじめ被害者らの家族、関係者に対し、終生にわたる謝罪の意を表せしめるのが相当である、との結論に達したからといつて、その判断が、情に流れて被告人に有利な情状を過大に評価し、被害者の遺族及び世人の感情を無視又は軽視した不当なものであり、その量刑が軽きに失するものとは必ずしも考えられない。論旨は採用することができない。

以上のとおり、本件各控訴はいずれも理由がないから、刑事訴訟法第三九六条によりそれぞれこれを棄却し、当審における訴訟費用につき同法第一八一条一項但書を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 樋口勝 関重夫 金末和雄)

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